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想いと動き

先日、久しぶりに公演しました。
いつもお世話になっている公民館でのおまつりというか発表会ですね。

ずいぶん、私は人前で歌わなくなっていましたので、今回はリハビリな感じで。
高校でお世話になっている先生方も見に来てくださいまして、
やはり、気合が入りましたよ。

もっとも、それ以上に緊張が凄かったですが。


また、自分の中で想いのあり方?といいましょうか…ちょっとしたことを考えていました。
私のソロ曲は夏川りみさんの涙そうそう(ウチナーグチVer)でした。

不思議なことに、この歌はリズムというかウチナーグチであるからかわかりませんが、
リード要らないんじゃ?というくらい歌えるんですよね。
何故かヤマトグチではそこまで上手くない(汗)

沢山の人に見ていただけて温かな拍手も頂き、感謝でございます。

この日は、私たちチーム「JOIN」が大トリをつとめたという事もあり、
終わりに公民館館長のはからいで「ぷち手話教室」も致しました。

人との繋がりというのは幼き頃、“自治会”それも“子ども会”というのに参加してた私にとって
この日が懐かしい感じに再会したような印象がありました。

挨拶は人付き合いの基本。
私の癖はたとえコンビニであろうと必ず最後に「ありがとう」を言います。
言われて嫌な気持ちになる人はあまりいらっしゃらないと思います。

挨拶を交わし、お礼を交わし、笑顔でほっこり出来る機会はいつぶりだろうかと思ってしまう。
そんな日でした。

コロナ禍でのマスク生活が私の精神的なものに大きな影響を与えてきたこと、
主治医のお話でハッとしました。

筆談であれ、手話であれ、コロナ禍のマスク生活の間にもう少しコミュニケーションがあれば、
ここまで知らず知らずに削れてしまうことも無かったでしょう。

これからはマスクは必須ではなくなるそう。
恐らくは、半分以上の方はマスクを続けると思いますが、
少しでもマスクがなくなり、口が見え、コミュニケーションを図れるのであれば
それだけで、良い時代になったと感じるでしょう。

そんな事を考えてしまいました。

 

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Home >> 活動 >> 壮観なる“合唱”の世界

壮観なる“合唱”の世界

先日、私が講演をさせていただいた中学校にて1年生の学習発表というのを見せていただきました。

聴覚障害や手話に関する内容や、障害の有無などに関わらず“大切なこと”をお話させていただいたんですね。
それと同時期に「カイト/嵐」の手話歌を制作させていただきました。

この中学校は市内でも有数の生徒数を誇る学校なのです。
確か1年生だけで317人居るそうな。

クラス数は9組まである。
私の中学時代で8組330人近くいましたので、少児化が進んでいる昨今では久々に大勢の生徒さんを前に講演したことになります。

この1年生全員が舞台で発表は難しいということでAとBの2つのグループに分け発表となりました。

1つのグループが約150人。
これだけの人数が一堂に会し、1つの手話歌をするというのは恐らく私自身初めてではないかと思います。

コロナ禍によって発表できる場や機会もずいぶん無くなりました。
そんな中、数年ぶりに親御さんも見守る中発表できたというのは大きなことです。

写真はプライバシーの関係もあり画質を落としていますが、非常に多くの生徒達が並んでいるのがおわかりでしょうか
しかも、これはAグループのみ。
Bグループももし同時にやったらこの2倍。
とんでもないことですよ…これは(汗)

「ろう学校などで手話歌とか…」てな話もありましたが、
ろう学校というところはそもそも一学年あたりの人数が少ないのです。
私の記憶にある一番多かった時代のを想像してみますと、一学年10人〜20人程度。
中学部(普通校でいう中学校)三学年全員で60人位でしょうか。
高等部(普通校でいう高校)も同じくらいとして60人
専攻科(高専学校の“専科”部分?)が2学年で就職などで本科よりは少なくなっており、合計30人程度でしょうか。
つまり、中学部以降、専攻科まで全員参加してやっと150人。
昨今だともっと少ない。

なので、文化祭などの発表で手話歌をやったとしても20人程度でやる感じになってしまいます。
そこにきて、1グループだけで150人という大所帯で手話歌をするというのがどんなことなのか?
たくさん公演をやったり出席したり見てきた私でも、これは“壮観”の一言です。
揃いも素晴らしい、表現の工夫もある。
どれだけ練習を重ねてきたががわかる。

生徒の自主性を育む教育方針のもとこのイベントができたとのことなので、
手話や盲導犬、国際状況、LGBTQ、など幅広いテーマに、劇や紙芝居など工夫をこらした動画付きの発表でした。

終わりに、コメントを求められ、思いがけずのプチ講演になってしまいましたが…
この発表会を見て感じたことを話させてもらいました。

=====
コロナ禍でなかなか発表の場や機会が得られないこと…コロナ前と比べる話は身の回りにも多くあると思う。
たくさんお見せできなくて残念と思う方々も多いと思う。
だが、また次があるとテキトーに練習とか発表をすることができない今、
「次はないかもしれない」と思いながら頑張っていく気持ちを持てるのはコロナ禍に居る今のみんなではないか?

調べた、まとめた内容は凄い、凄すぎる。
私が皆さんと同じ年頃にここまで調べたり考えたりしたことがあっただろうか?
ただ、惜しむらくは発表にあたり、見てくれている他の生徒やご両親に伝えようという気持ちはあったか?
内容が素晴らしいものであっただけに、早口すぎたり、展開が早すぎて置いていかれた感があったのが実に惜しい。

これからのみんなに私は期待する。
「伝えようとする想い」、「相手を知ろうとする目」これがどんどん学びを重ねていく中で、
みんなのチカラになることに期待する。

今日は善き時間をありがとうございました!!



と、まぁこんな内容を伝えました。(照れ)

高槻市立第二中学校2022年一年生一同に幸あれと願う。
 

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Home >> 活動 >> バリアフリーとは何か

バリアフリーとは何か

台風が熱低に変わり、その夜酸欠になった感じで帰宅後すぐに水風呂に飛び込みました。
皆様も暑さには気をつけましょう。(あいさつ)

さて、バリアフリーという言葉を久々にきいた気がします。
「障害者福祉」=「バリアフリー」というくらい一時期“流行った”言葉ですが…
今ではそれほど聞くこともありません。

本来、バリアフリーという言葉を考えるには「バリア」とは何か?を考える必要があります。

わかりやすい例が「車いすユーザ」が段差によって通行できない。これがバリアがあるという言い方をされました。
本来はバリアとは障壁であり、その内側を守るものであるのが一つ。
もう一つは「障害物」を指します。

語源は「建築用語」からきています。
従って語源にならうなら「物理的障害」とするほうが意味的には間違いがないでしょう。
ただ、日本では「物理的」「制度的」「文化情報面」「意識」の4つのバリアがあるとされています。
これも間違ってはいないんですけど(実際に障害を持っていると何らかの“壁”を感じているので)正確でもないかと思います。

20数年前ですと「車いす用トイレ」という名称でトイレがあり、名前からして「車いすユーザ」以外は使えないという印象がありました。
吹田市でバリアフリーマップの制作事業をやっていたときに多くの問題を見つけました。
「車いす用トイレ」と言っているのに“車いすで入れない”という本末転倒なものや、
鍵が掛けられており、使用するためには鍵を開けてもらわないといけない→どこに鍵があるの?誰も知らない。
こういうケースは珍しくなく、管理事務所などを探し、問い合わせると「犯罪や風紀上宜しくない行為が発生するから」だそう。
また「いつ来るかわからない車椅子の人のために一つ開けておくというのも…」という声も。

確かに車いすユーザよりそうでない人の方が多い。
また、トイレで困るのは障害者だけか?ということもあって
「多目的トイレ」と名称を変え、車いすユーザのみならず、高齢者や乳幼児を連れた親御さんなどにも広く開放するカタチになりました。

この調査のせいで新しいトイレを見つけると使い勝手などを調べてしまう癖も出来てしまいましたが(・・;)
閑話休題


これも、バリアフリーの例を描いた図なのですが、ほんの一部です。

多くの場合はバリアフリーを考えるとなると“移動困難者”を指すことが多いのですね。
車いすユーザや視覚障害者などは日常に外出するとき困難があります。

従って、先述のトイレ問題もあれば、エレベータのような階層縦断経路、点字ブロックを使った指示パネルなど
おおよそ、物理的なものが多く取り上げられます。

各建物にこういう物理的措置をせよという国や行政側からの指導に関する法律は「ハートビル法」というものに纏められています。

逆に移動に困難が少ない場合はバリアを感じないのです。
そのため、聴覚障害者に関しては「バリアフリーの一例」ではほぼありません。

聴覚障害者は別名「情報障害者」といわれるように、「情報取得」に困難を持ちます。
今ではこれに対する設備や配慮については「アクセシビリティ」という言葉で語られるようになっております。

音声情報を聴覚障害ゆえに得ることが出来ない→アクセシビリティが阻害されていると見なし
この対応策としての電光掲示板などが「情報アクセシビリティ」として言われる対応となります。

ただ、これもまた福祉の有り様が変わってきて「全ての人に使いやすく」を目指す風潮になりました。
これを「ユニバーサルデザイン」といいます。

ここでは障害の有無は重要ではありません。
障害の有無で判断するのではなく「出来る」「出来ない」が“軸”となります。

障害がある人はほぼ一生そのままですが、障害がなくとも一時的に病気や怪我などで今までできたことができなくなることは十分に考えられます。
また、現在は高齢者社会といわれるように「加齢」によって出来ていたことが困難になることもありえます。

これらの個々が複雑に混じり合い、社会を構築している。これが現代社会です。
100%は難しくともこの多様性の幅にできる限り対応することが出来る…これが「ユニバーサルデザイン」の根底にある考え方です。

多くの人がごく普通に過ごせる、用が足せる、自立生活を送れる…これがこれからの福祉の中心になるものです。
とはいえ、何でもそういう設備などを用意しておけば大丈夫ってわけでもないので
今後もますますの研究や発展が望まれることでしょう。

 

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