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見えないものを見せる極意はマイムにあり。

私、知る人は知っている「GEAR」ファンで御座います。
更にいうなら「いいむろなおき」氏を師匠と慕っております。

そんな私ですがマイムとの出会いは高校生くらいの頃でありましょうか。
既に手話というものに出会っている年頃でございますが
私は聴覚障害を持っているものの学校は全て地元の普通校。

即ち、“私と同じ障害を持つ同世代”というのを求めていた時代でもあります。
高校の間に近畿にあるろう学校は全て訪ね、更には名古屋まで広げていた時期でもありました。

その頃からでしょうか、様々なろう者の表現者にお会いしたのは。
例えば「大阪パントマイムグループ」(正式名称は忘れましたが…(汗))の芳本氏。
社会人になってからは「デフ・パペットシアター・ひとみ」の庄崎氏。
このお二人とは後年、ある演劇の舞台にて私は照明担当と一緒に仕事をさせて頂く流れになります。

今でも庄崎氏は私が師匠と慕っている人物でございます。

ま、それは別の話。

パントマイムを少々でもかじると「見えないものをいかにあるように見せるか?」という表現であることは
強く私の中に刻み込まれます。

ろう高齢者で「“正式な”手話」を存じない方々とはまさにパントマイム的表現を駆使して会話をすることになります。
手話学習者ならば一度は聞いたことあるだろう「写実的」表現であります。

私はイメージというものを大切にします。
言葉に含むイメージや文章の持つイメージ等など。
ここは日本で「日本語」が通常使われているという場所なので
日本語を突き詰めるために大学にも行きました。
10年籍を置いて、日本語や国語の単位は全部取った。
当初の教員になるという夢よりも目指したいものがあったので
学びが終わったら中退という道を選びました。

今、手話歌制作者という立場でおりますが、
かつてマイムをかじったという経験と日本語の有り様に学びを得た経験から
私は制作時には歌の持つ意味合いだとか情景、心情を徹底的に掘り下げます。

手話は一つ一つの手の形や動きに意味があるというのはもちろんですが
「単独の言語」である以上、日本語通りに表現では意味が通らなくなることもしばしばあります。

先日の「春和コンサート」でも例に上げましたが
「押し花」について「押す」+「花」の流れで表現すると
言葉としては日本語の文字通りですが、手話で見ると押し付けたはずなのに「花が咲く」のですね。
手話での正しい表現は「花」+「押す」です。

これは「押し花」を「花を押し付けたもの」と逆の解釈をすると手話表現は矛盾しなくなる。
しかも、押し花とは花を紙などに押し付け標本みたいにしたものですから見た目も同じものと認識できます。

まだ、こうやって目に見える形で説明できるものならばよいのですが、
実際の歌をうたう時はそういったモノを全て取り揃えるわけには行きません。

そこで想像力やイメージ力というものが重要になってきます。

マジックなどを例に考えるとわかりやすい。
無いものをあるように見せて…というテクニックはよくあります。
あるものを無いものとして見せるというテクニックもあります。
そしてそれを実現するための“タネ”も“仕掛け”もあるんですね。
そのタネや仕掛けを見抜かれないように演技をする。
それがあまりにも上手すぎてコインが消えたり、現れたり
そういった驚愕の現象に映るわけですね。

パントマイムですといいむろ師匠の大技よりはむしろ小技。
基本中の基本をやっているのですが、「ある温室から出るときに“見えない”壁があり、ドアを見つけて出る」
この動きに実際に壁があるように感じた。
見る人にそれを感じさせることが出来て初めてパントマイムは単なる“ものまね”から“芸術”になる。
私はそう思っています。

私が作る手話歌も手話を100%使っているかというとそうではなく、
手話を知らない人でも「なんとなくわかった!」と思っていただけるような表現を心がけて作っております。
音楽ではありますから歌が流れないとという部分はもちろんあります。
ですが、アカペラで手話歌を歌っても「ああ、良いなぁ」と感じてもらえるレベルにまで拘っています。

私が手に持っているその手の中には青白くほのかに光る“宝珠(オーブ)”があり、
それはほのかなぬくもりを帯び、手を開くとゆっくりと天に上っていく。

実際は両手で何かを包む仕草をし、少しずつ開く
たったそれだけのことなのですが、私の頭の中には上記のシーンが有るようなつもりで動いています。

見ていただいたお客様に何かそういったモノを私が持っているように見えたなら
イメージとイメージが一致したことに。

手話歌で「俺すげーーーーー」的な感情を持ったことは全くありません。
「歌えてるぜぇ!」という感情もありません。
そういうのは全て終わった後に来るものであり、舞台に立っている間はそういうのは“邪魔”です。

ギタリストがエアで弾く真似をすればそこに音楽を感じるのは当然だと思いますか?
答えは否です。
むしろエアギターしか出来ず、本物は弾けないという人ほど音楽を感じます。
その違いは簡単。

ギタリストはあくまでも自分のギターを弾いている真似しているだけで、
そこに自分のギターがないことがわかっている。

エアギターのギタリストはそこにギターはないけれどギターがあるつもりで
自分はギタリストになり切っている。

なりきった方がそこには見えないけどリアルに感じるのですね。

大阪ではいきなり斬りつけるとやられた方は斬られるふりをする。といわれます。
そんなことはないんですが、なんとなく空気感で一致した場合はしますね〜。

こういう時、ごっこ遊びなので子供の観察力には驚かされます。
ある例ですとドラゴンボールの「かめはめ波」ですけど、
悟空とベジータで撃つ感じは違うそうですよ。
そこは私はわかりませんが…

私の持つイメージで「かめはめ波」撃ったことはあります。
「なんか凄いのでた」と言われたので撃てたんでしょうね。(笑)
そして、その子にはそれが見えたと。

手話歌も同じで、どう思いながら歌っているかは本人以上に見ている人はわかってしまうので
同じ表現でもペラペラな表現やリアリズムを感じる表現まで幅があります。
私が作るものはリアリズムを感じられるように表現してほしい。

そう思いながら今日も作っています。

 

nightfox-hq | comments(0) | - | pookmark | category:手話歌考
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