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我が仕事は何たるや?

旧友との一夜のあと、仮眠の後、出動。
いわば運送を務めたと思いねぇ。

その道中に相方とも色々話しつつのひとときであった。
旧友が語ってくれたことも踏まえて、相方と自分のスタンスを確認した。
何処かで不安があると間違った考えに陥っているかもしれないので確認も込めて。

タイトル通り「我が仕事は何たるや?」の問に答は「手話歌を制作する」がメインである。
指導も、公演も講演ももちろんするけども、本来のウエートは「制作者である」ことと思う。

即ち、全力を傾け行っているものは「表現のあり方」を常に考えているようなものだ。
その蓄積が今の自分の力になっているということは旧友のいうところの“知的財産”というものであろう。

過去には著作権などの“制作者の権利”的な内容はここでも書いていたが、
制作者の権利の以前に、自分が何故これが出来るのかというと
作ってきた歌の数、生み出した表現の数、公演した実績、作るために何をしてきたかという積み重ねの一つ一つ。
それは財産ではないのか?

手話譜はもちろん宝物ではあるが、それはあくまでも表現方法を書き留めただけのシロモノ
本当の宝は自分の経験や研究の結果であり、その蓄積であると思う。
それがあってこそ、“今”「制作」出来るようになっているのだから。

結局、中退したが再入学までして10年大学行ってたのは何故だったか?
決して安い金額ではなかったはず。
一時は“教員の道”も考えたことは認めよう。

だが、本当はそれすらも些事。
「国語」を学び、「日本語」を学び、「言語」を学ぶ…それが一番したかったこと。
それに関する単位は既にとった…迷ったのは「学び」と「卒業」を天秤にかけた。
大卒の資格が欲しかったわけではない…で中退を選んだ。
私が大学で学んだことの多くは世の中には「博士」や「研究者」という道で更に上に行っている方も居るだろう。
だが、求めているものが違うのに籍をいつまでも置いていても仕方がない。

高校という教育の現場で13年実地でやっていた(今は辞めたけど)
それもまた「学び」と考えるならば、「今の自分」がこうしていられるのは
財産と言えるものがこの私のアタマにあるからだろう。

自分も旧友と話すまでは「権利の根拠」となる「何か」に関してはあやふやなところがあったのは否定できない。
根拠は自分のアタマの中にあったのに…だ。

自分が手話歌に命を削ってるような取り組み方をしているのは
それが自分にとっての宝だから…と整理してみればスッといく。

単なる手話歌で終わるようなもの…とりあえず歌を手話で…なら他にも居るだろう。
しかし、自分のやっていることは矜持を持っているならそれは自分にとっての最大の価値だろう。

ある例を考えてみた。
上映会などで作品を上映する場合、ひとりアタマ幾らという上映権を取る。
手話歌も同様のはずだ。

一人で歌うにも何処でやるにも耐えれるような作品を作ったのならば、
それを演る方々はそれで報酬が頂けるものを私が作ったことに。

そう考えると指導を受けた側が無料の場所で演るか、有料で演るかはその演者の問題であって
私自身はそれには“本当なら”関係なく、一曲当たり幾ら☓人数は頂く。
もっと早くにそういったルールを作っておけば要らない悩みやストレスを溜め込まずに済んだものを…と思ってしまった。

創作物をどう評価するかは見る人の勝手ではあるが、
自分の創作物の価値を決めるのは自分ではないか?
見合うものと思うならば値段が幾らであっても学びたい方は学ぶであろうし、
依頼したい方は依頼するであろう。

エルメスやヴィトンのカバンを「ただのカバン」と思うならそれでも良い。
確かにカバンだといえばその通りだ。

ブランドだから高い…これはモノの価値が分かってていっているのかどうかは人それぞれ。
良いものは良いで、必要と思うなら無理してでも買うだろうし、
用が足りればそれで良いと思うなら、安いのを選んで買うもそれは自由。

だが、これだけは言えるかなと思うのが、
ブランド品はブランド足り得る品質や技術の維持を求められる。

私の場合はどうか?20年前はそのへんの手話を知っている人が歌に合わせて手話するのと大差なかったかもしれない。
今は???「教える時間」だけを見てもわからない裏側の努力や学びを続けているから今のカタチ。
ならばそれに見合うだけの請求はするし、それだけの価値のあるものを作っているという矜持がある。

ましてやパフォーマーと言っても良いようなことをしていて、「福祉」がどうとかって全く関係ない。
私の手話歌のイベントを演るとしても読み取り通訳や手話通訳は付けられないよ。
福祉の範囲ではないから。

手話通訳者を派遣できる範囲の外で私は居る。
ならば「福祉ではない」と言っても過言ではないだろう。

ああ、手話歌を通して「手話に興味を持って頂く」とかそういう部分はあっても良いと思っている。
自分も手話を使える人が増えることや、手話は言語であるという認識が広まることは嬉しいことだから。
でも、それと“格安”や“無料”でやるのはまた別の問題。

ストレスをためすぎるとある日「ポックリ」と逝くこともあるそうだ。
その辺りは精神科の先生にも言われている。
若いからという問題ではない。

私が消えたらこのスタイルの手話歌は居なくなる。
(似ているのは居るかも知れないけど…徳田手法そのものは消える)

自分の価値とそれを続けていける将来とを見越して考えねばならないなと
本当に“わかってはいたけど、線引きが曖昧だった”のが自分の「お人好しさ」、「甘さ」であるだろう。

改めて自分も反省すべきはして、さらなる精進をせねばなるまい。
何故「五省」を自分の中に持っておきながら有効に使えないのか?
いつも反省ばかりしかなければ五省の意味はない。

【五省】
一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか
 (真心に反する点はなかったか)
一、言行(げんこう)に恥(は)づる勿(な)かりしか
 (言行不一致な点はなかったか)
一、気力(きりょく)に缺(か)くる勿(な)かりしか
 (精神力は十分であったか)
一、努力(どりょく)に憾(うら)み勿(な)かりしか
 (十分に努力したか)
一、不精(ぶしょう)に亘(わた)る勿(な)かりしか
 (最後まで十分に取り組んだか)

自省を込めてここに記す。

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