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正確には手話ではない手話たち

最近、手話に関しての考えを各所で述べるようになる機会を得ました。
私のスタンスを先に述べておきますと手話は「日本手話」という派です。
更に、この日本手話は「日本語」、「英語」、「フランス語」、「中国語」、「マレー語」、「スワヒリ語」など
世界中で使用されている「言語」としての位置づけは同列としています。
即ち、「日本語」に音声や筆記という表現方法があるので「手話もまた(言語の)表現方法だ」という方もいますが、
これは「言語の“表現方法”」であって“言語そのもの”ではありません。

この複雑かつ多様化した現代社会において「言語」が担う役割も非常に重要になっておりますが
日本語としての「言語」と手話としての「言語」は同等かつ別物と理解ください。

最近はGoogle翻訳などで言語の違いによる意思疎通の敷居は下がってきている感はありますが、
アメリカ在住時に英語ならではの言い回しを日本語で理解することが難しく、
私の母国語である日本語を英語へ置き換えるのも難しいケースはたくさんありました。
手話も同様です。
文章通りに手話翻訳すると意味が通らないということはザラにあります。

しっかりとした「理解者」が翻訳する場合は意味が通じる翻訳ができます。
これは日本語→英語→日本語といった逆翻訳をやってみればわかります。
直訳では意味が変わってくるということがね。

ですので、手話も表現を考えるとき、日本語から離れる必要があります。

そこで、正確には手話ではないんだけども、私のような聴こえない人と聴こえる人が意思疎通を実現した例を下記に述べます。
今回は数多くある意思疎通の中から「趣味性の強いもの」を例に出したいと思います。
仕事の場合は勤務上「必要」だから「ある」のですが、「趣味性の強いもの」は別に「必須」ではありません。


この写真は1990年当時の日本GPでのマイケル・ドゥーハン選手です。
搭乗しているマシンはホンダNSR500、ロスマンズホンダチームから出場しました。

この時代は市街地では暴走族、峠や埠頭などでは走り屋という集団が居た頃です。
私もその例にもれず、走り屋をやっておりました。
どういったものかというと“公道レーサー”ですね。

確か当時は16になればバイクの免許!!!で、私の世代なら先輩から後輩までガンガンバイクに乗っていた時代だと思います。
ここでは走り屋がどういうものかという話ではなく、“意思疎通”にどうしていたか?がテーマです(汗)
(危うく脱線するところでした:苦笑)

関東だと「いろは坂」、関西だと「六甲」、「南港(N港と記載)」など。
聴こえる人も聴こえない人もめいめいに一箇所に集まって走ってるんです。
まぁ「公道レーサー」の時点で道交法違反ですから「違反は違反」ですが、
お互いに「ここではこうする」、「こんなときはこうする」というローカルルールを決めています。

サーキットと同じようなことを一般公道でやっているのですから転倒する人も勿論います。
ひとたび転倒が起きるとギャラリーも含めて一般車両を止めたり、転倒車両を回収したり、
奇妙ですが一種の“連帯感”がありました。
そこには「聴こえない」ことは関係ありません。
「上手い」か「速い」が答えになります。

そうなると何が起きるか?といいますと自然とバイク談義みたいなのが始まるのですね。
どう走れば速くなるか?など…。

ちょっとした実験なんですけど聴こえる方と私の居たバイクチーム自由騎兵のメンバーでサーキット当てクイズをやりました。
当時の鈴鹿は8時間耐久などで東の富士(スピードウェイ)、西の鈴鹿(サーキット)で有名でして、
そのコースレイアウトを手を使って表現。
親指が上で頭も兼ねて指先はフロントとして動かします。

聴こえる人だろうと聴こえない人だろうと差はなくどちらも答えることが出来ました。
つまり、この手の動きはバイク乗りであれば基本的に同じイメージを持つということですね。

また、コーナリングのときの状態をたった一つの手で表現していきます。
前輪荷重、後輪荷重もあるし、アクセルワークはエアでアクセルのひねりを表現しますし
ブレーキの掛け具合もエアで表現します。

私の場合はメカニック系(走るのはそんなに速くない)だったのであらゆるパーツを手で表現。
今は無きバイク屋さんのメカの兄さんや走り屋の常連さんたちとはこれでほぼ通じていました。

多くの人はブレーキ=自転車のブレーキレバーをイメージします。
私たちメカの方になると「ブレーキ」はブレーキを掛ける動作のことであり
ブレーキそのものを意味しません。

バイクにもあるブレーキレバーそのものは同じ動作ですが、
パーツとして「(ブレーキ)マスターシリンダー」、「(ブレーキ)ホース(オイルホース)」、「(ブレーキ)キャリパー」、「(ブレーキ)パッド」、「(ブレーキ)ディスク」
もっと言うならキャリパーユニットをバラすので「キャリパーピストン」など細部の部品も表現します。

こういった話を手を使いながら話すとお互いがよく分かるため次回からはその表現が活用されます。
ただし、分かる人同士でないと通じないので非常にローカル的で、ワークサイン的な表現ではありますが
手話かと問われれば手話みたいなものではありますけど「厳密に手話」とは言い切れない。

今回はバイクの話を例に上げましたが、同じものをイメージ共有出来る環境下にあると手の動きで通じ合える。
逆に言えるのは如何にイメージを共有化出来るかが大切だということ。

逆に日本語話者同士、英語話者同士、手話話者同士であってもイメージを共有できない限りは“真”に通じ合うことはない。
なまじ、「コトバ」が通じてしまうから行き違いが起きるし、起きていることにも気づかないのであろう。

大事なのは互いに「伝えよう」という思いだと思う。
そのための手段が言語のもととなったとも私は思っている。

 

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言語脳

最近、手話に関して考察をまとめている。
一つは人間は考えるとき「何語」で考えるか?である。
本当は、見たままをそのまま頭に思い浮かべるのだが、
そのプロセスから直ぐに「言語化」するというケースが多い。

日本語でモノを考える…などはわかり易い例。

私も例にもれず、日本語でモノを考える方だとは思う。
何故ならば目に見えるものの多くが日本語などの“活字”であることが多いからだ。

しかし、風景や事象そういったものに関しては「日本語でモノを考えない」

見たままを再現しようとすると「日本語」が邪魔になる。

物事を「日本語化し、表現する」ことは一つの方法ではあり、同じものを他者に伝えるには必要な作業だと思う。
本来、人類はそうやって言語を編み出してきた。
だが、「日本語にない」情景、事象においては「日本語」では冗長になり「短い1語」で表現ができない。

面白い対比だなと思ったのは日本語脳と英語脳の違い。

基本的に英語は主語がありその次に動詞がある。

I Sleep with the cat.
直訳すると「私は猫と寝る」
絵を書くとき自分が寝ているシーンを描く、そばに眠る猫を描く。
冠詞が“The”であるのでいつも決まった猫…飼い猫だろう。

英語だと聞いたまま絵を描いていっても大きな変化はない。
(絵心の有無は別(笑))

ところが日本語で「私は猫と寝る」ということを文字通りに描くためには最後まで聞かなければ描けない。
つまり、私は猫と一緒に居るという絵は描けるだろうが、「それからどうした?」がわからない。
予測して「私は猫と遊ぶ」という絵を描いたとき「寝る」となって慌てて描き直す。
そういったケースが起きやすい。

今回短い文章を出したが、普段はそんなに短い言葉ばかりで会話をしているわけではない。
と、いうことは日本語は最後の最後で予想を裏切ることが出来るのだ。

「私は猫と寝ない」→最後まで聞いたから「猫と一緒に寝ない」ことがわかる。

I dont sleep with cat.

英語だと最初の「I dont sleep〜」で寝ないことがはっきりしている。

こういう、日本語脳と英語脳の対比を考えて手話はどうか?と考えると
「猫と一緒に寝る」シーンをそのまま再現するので手話脳はまさにイメージのまんま。

例文が非常に短いのでどっちの脳で見ても同じようなイメージとなっているんだが…
もし、これが非常に長い文章だったらどうなのだろう?

手話を使うにあたって私は「手話という言語は一つしかない」と常々言っている。
その幅に関しては「イメージ重視」から「日本語文法重視」までの幅がある。

高齢者の場合は教育の関係で日本語語彙が少なく「イメージ重視」表現を主とする。
ここで誤解してほしくないのは、日本語語彙が少ないだけであって知能レベルが低い訳ではないのだ。
現に「イメージ重視の手話」であれば彼らは雄弁に物語る。

逆に日本語教育が進んでいる弊害か、「日本語寄りの手話」に浸ってしまっているからこそ、
世代分断が起きる。

学校教育を受けることは重要ではある。
しかし、「イメージ能力」を徐々に失っていくのが多いように思う。
思春期を中心に「厨二病」なる言動をとる児童がいる。

彼らは「定められたルール」を設定し、「それに従い」、「イメージの中」で暮らす。
イメージの中では「魔法」を使えたり、「特別な任務」を帯びていたりと現実ではありえない事が“真実”であると振る舞う。

ここで注目していただきたいのは「イメージの中で“真実”であるように振る舞う」ということ。

見えないモノを見て、聴こえぬものを聴く。
それを再現するには日本語では難しい。

何故ならそのイメージは彼らの中にあるからだ。

手話歌制作家をやっていると「日本語」を直訳すると「おかしな手話表現」になってしまうことが度々ある。
それは当然だろう。
何語であっても文章とはイメージではなく、言語を音声化または筆記化したものに過ぎないのだから。

手話は本来言語として一つであり、これをそのまま再現することはイメージである。
イメージすることと手話表現することは重要な関係にある。
そして、多くの場合イメージを手話表現にそのままするほうが容易い。

文章にするには、その言語化する必要があり、日本語なり英語なりとする。
その上で筆記や音声とするのだ。

厨二病らしく「炎の魔法」を私がやってみるとする。
最初は手のひらに火がつき、メラメラと燃える。
段々とその火は炎となり、火炎なり、轟炎なりと大きくなる
使っている手話は火の動きを再現しているだけだ。

その表現の違いを日本語に変えているから火だの炎だのと言葉が変わるだけ。

燃え盛る炎に包まれたような表現をしているのに「火がついている」と言っても間違いではない。
規模に合わせて言葉を変えていってはいるが、あくまでそれは日本語でありその言葉の表す意味と
その表現をしている人の中の頭のイメージとは違っていることは普通にあると思っていただきたい。

ただ、表現力のある方はそこにないものがあるようにみせることが出来る。
パントマイムなどはまさしくそれである。

状況の説明は出来ても、恐らくその言葉でイメージは伝わらないだろう。
見たままを感じ、感じたままを見せる。

手話脳というものがあるとすれば「言語に左右されない“イメージ”を先に思い浮かべる」人であろうか。
日本語に振り回されている人が居るとしたらそれは「イメージ力」が足りない。
手話をやる上で困難を感じたならそれはイメージではなく言葉に引っ張られている。

まずはイメージを思い浮かべる訓練をするといい。
モノを決めつけずに観察するのも大事。
じっくり観察していると思わぬ動きなどもあるのだから。

 

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Home >> 言語考 >> 手話通訳とはなにか。

手話通訳とはなにか。

過日、「日本手話」と「日本語対応手話」を分けようとする動きについて述べた。
今回は「手話通訳者」の視点から「手話通訳の“有り様”」について書きたいと思う。

まず、手話通訳者とは文字通り“通訳を行う人”であるのだが、幾つかの違いがある。

例えば「手伝い程度」の通訳というものがある。
これは例えば日本語話者と外国語話者が意思疎通を計れない状況下で、ちょっとした手助けをするもの。

こちらは私が経験したもので考えると…
観光地をちょっと外れた場所で迷子になっていた外人観光客と地域住民のやり取りを私が通訳したことがあった。
もちろん筆談と身振りだが。

もう一つはオンラインでのゲームの世界で、全世界展開中のゲームだと自分のクラン(一族やチームと言っても良い)の中に
英語やスペイン語、ドイツ語、韓国語など多くの言語が使用される。
翻訳機能も持ちろん付いてはいるが、「スラング」、「略語」には対応しきれない。
日本人プレイヤーと海外勢とのコミュニケーションの不一致も起きやすい。
なので、ちょうどクランリーダーがイギリス人で英語ベースでの会話が多いため、
私が英語で発言や日本語翻訳を行っていた。

当然ながら通訳者ではない。
たまたま分かるからクランがスムーズに動くようにするため翻訳をしただけ。

これを手話で考えるならば、手話を多少は使える人が「発言された内容を手話にして」私に言ってくれるような感じだろうか。
「事故によりこのあとの列車は遅延致します」というアナウンスを「電車が遅れるって。事故で」と言ってくれるような感じだろうか。

上記のケースだと本当は「何処で?何が起きた?何処から何処まで?」など詳しいアナウンスだと思う。
かいつまんで「事故で電車が遅れている」と通訳をする。
ここにはアナウンスの内容を全部通訳しているわけではない。

講演などで話されている内容を「通訳」するには予め原稿を用意されている場合もあれば、ぶっつけ本番の場合もある。
原稿が用意されている場合は難しい表現となる部分(文字通りに表現すると意味が通らない部分)を前もって検討しておくことが出来る。

ぶっつけ本番であると「何をどのように話すのか」がわからないため、通訳者は聞こえてきた通りに「通訳をする」しかない。
この場合は「通訳者」のスキルが非常に求められ、「今の表現では伝わらない」とわかった瞬間“訂正”を入れる。
ただ、訂正を入れるということは話の内容がその分進んでしまうので間に合わないことも発生する。

講演の話者の話す速さが速い場合も非常にしんどい。

ここで、考えてもらいたいのは日本手話といわれる表現方法だと講演時にある程度聞いて把握してから通訳になる。
つまりは要約した表現になりがち。

仮に「私のアメリカ生活」というテーマで2時間話すとしよう。
「いつ、何処から何処まで行って、何処で暮らし、何が起きたか」を要約した表現で通訳されたとする。
2時間話しているのに実際の手話通訳での表現時間は30分程度となってしまう。
本当はもっと細々とした内容を語っているんだが、通訳者が「どういう話?」を理解し、「つまり…こういうことがあった」と訳す。
このような通訳では細かい部分は全く伝わらない。

日本語の発言通りで通訳していくと細々した部分も全て通訳できるが、
話の途中で通訳者が「あ、これ意味が反対になってしまった」などと気づく場合もある。
(当然ながらここで“訂正”を入れる)

手話通訳の幅の広さは非常に広く、対話の通訳であればわかりやすく噛み砕いたり、表現を変えたりもする。
本当は病院などで通訳して頂いたとき、まずは先生の発言をそのまま通訳していただいて、
自分がわからないとき自分から「つまり、どういうことですか?」と尋ね、
“先生の噛み砕いた説明”を通訳していただくのが正しい。
(通訳者が勝手にそれをすると通訳ではない)

また、対話の通訳は通訳者も追いつかない場合は「ちょっと待って下さい」と話を一時停止することが出来る。
したがって、その人にとってわかりやすい表現で通訳を行うことが出来る。

これが講演など一方的に話されるような場面、通訳対象者に幅がある場面ではそれは非常に難しい。

ろう者にも国語力の差や、イメージ力の差がある。
その差は「手話通訳者」にもある。

ろう者側が「日本語に沿った表現で通訳して欲しい。」に対しては「手話通訳者の多く」はそれが出来るであろう。
(手話通訳者も日本語話者であるため)

逆に「イメージに重点を置いた表現で通訳して欲しい。」に関しては相手にもよるので、それが出来る人はそう多くは居ない印象。

私には非常に印象深かった経験があって「手話サークル」に顔を出したとき
「手話通訳者として活躍している人」がある高齢ろう者への説明に非常に苦労されていた。
私がその通訳の方と目があい“助けて〜”という目をされたのでフォローに入った。

なるほど、手話メインで会話をされており、イメージで手を動かす表現をされる人。
日本語に沿うような手話表現での説明ではわかりにくい方だった。

私は経緯や流れをある程度把握したあと、「脳内スイッチ」を切り替え「イメージ重視の手話表現」を使用し始めた。
(いわゆる“ろう者手話”といわれたりするもの)
通訳者が普段の私の話し方と違うのを見て心底驚いていた。
しかも、恐らく長い時間やり取りしたであろう会話が、あっさりとその高齢ろう者の方に伝わり、笑顔になられた。

手話通訳者としてもこれが出来る方は私が知っている範囲でも数える程度しか居ない。

ろう者であり、手話をメインに使っている人であっても「日本語に依存している方」は
そういった高齢のろう者の方とは話が通じない事が多い。

こういう例もある。
ろう協の社会見学で「ろう高齢者施設」へ訪れたときのことだ。
ろう高齢者の体験談をご本人の言葉で話される時があった。
ろう・聴取り混ぜて30人ほどその時は居ただろうか。
彼のお話をそのまま理解できたのは2名ほどの「ろう高齢者」、私と相方くらい。
聴者と若めのろう者は全滅。
彼の話を解説してくださった施設の方の話でやっと理解するという状況。

手話通訳者自身もずっと修行だと思うが、ろう者自身も修行が大事。
世代を越えた交流ももちろん大事。

今は教育環境も良くなってきており「国語力」の高いろう者も増えている。
だが、その反面、イメージ力が弱くなっていると感じることが時たまにある。

私は手話歌制作家で「歌詞」の持つ意味合いなどをどう表すかに毎回苦労している。
歌詞通り直訳すると意味が通らない手話表現になることも多い。

音楽というのは文字を追いかけるものではない。
いろいろな要素が含まれている“作品”を楽しむものだ。

従って、聴こえるから出来るものではなく、「何度も練習」を重ねないと歌えない。
むしろタイミングさえ掴めてしまえば声に左右されない分、ろう者のほうが歌いやすいかもしれない。
手話を知らない子どもたちのほうが覚えるの早いのはそれが理由かもしれないですね。

なにはともあれ、手話通訳に携わる人にもそれぞれの苦労があり、
通訳をしている間は「如何に伝わるか?」を考えながら通訳している。

そこに日本語対応だとか日本手話だとかいった不毛な話は持ち込むべきではないと思う。
会話の中で「ろう者的な手話表現」を当たり前に使っている方でも「講演」という場では
「日本語対応手話」みたいな表現になるのだから。

ろう者も手話通訳をやる聴者もこのような区別…「これはダメ」、「こっちが良い」などと言っていると
本来の目的を忘れてしまう。(何を通訳してもらってるの?)

大事なことは伝える・伝わることだ。
これは絶対に忘れてはならない。

 

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