スポンサードリンク

Home >> 言語考 >> 手話通訳とはなにか。
Page: 1/16 >>

手話通訳とはなにか。

過日、「日本手話」と「日本語対応手話」を分けようとする動きについて述べた。
今回は「手話通訳者」の視点から「手話通訳の“有り様”」について書きたいと思う。

まず、手話通訳者とは文字通り“通訳を行う人”であるのだが、幾つかの違いがある。

例えば「手伝い程度」の通訳というものがある。
これは例えば日本語話者と外国語話者が意思疎通を計れない状況下で、ちょっとした手助けをするもの。

こちらは私が経験したもので考えると…
観光地をちょっと外れた場所で迷子になっていた外人観光客と地域住民のやり取りを私が通訳したことがあった。
もちろん筆談と身振りだが。

もう一つはオンラインでのゲームの世界で、全世界展開中のゲームだと自分のクラン(一族やチームと言っても良い)の中に
英語やスペイン語、ドイツ語、韓国語など多くの言語が使用される。
翻訳機能も持ちろん付いてはいるが、「スラング」、「略語」には対応しきれない。
日本人プレイヤーと海外勢とのコミュニケーションの不一致も起きやすい。
なので、ちょうどクランリーダーがイギリス人で英語ベースでの会話が多いため、
私が英語で発言や日本語翻訳を行っていた。

当然ながら通訳者ではない。
たまたま分かるからクランがスムーズに動くようにするため翻訳をしただけ。

これを手話で考えるならば、手話を多少は使える人が「発言された内容を手話にして」私に言ってくれるような感じだろうか。
「事故によりこのあとの列車は遅延致します」というアナウンスを「電車が遅れるって。事故で」と言ってくれるような感じだろうか。

上記のケースだと本当は「何処で?何が起きた?何処から何処まで?」など詳しいアナウンスだと思う。
かいつまんで「事故で電車が遅れている」と通訳をする。
ここにはアナウンスの内容を全部通訳しているわけではない。

講演などで話されている内容を「通訳」するには予め原稿を用意されている場合もあれば、ぶっつけ本番の場合もある。
原稿が用意されている場合は難しい表現となる部分(文字通りに表現すると意味が通らない部分)を前もって検討しておくことが出来る。

ぶっつけ本番であると「何をどのように話すのか」がわからないため、通訳者は聞こえてきた通りに「通訳をする」しかない。
この場合は「通訳者」のスキルが非常に求められ、「今の表現では伝わらない」とわかった瞬間“訂正”を入れる。
ただ、訂正を入れるということは話の内容がその分進んでしまうので間に合わないことも発生する。

講演の話者の話す速さが速い場合も非常にしんどい。

ここで、考えてもらいたいのは日本手話といわれる表現方法だと講演時にある程度聞いて把握してから通訳になる。
つまりは要約した表現になりがち。

仮に「私のアメリカ生活」というテーマで2時間話すとしよう。
「いつ、何処から何処まで行って、何処で暮らし、何が起きたか」を要約した表現で通訳されたとする。
2時間話しているのに実際の手話通訳での表現時間は30分程度となってしまう。
本当はもっと細々とした内容を語っているんだが、通訳者が「どういう話?」を理解し、「つまり…こういうことがあった」と訳す。
このような通訳では細かい部分は全く伝わらない。

日本語の発言通りで通訳していくと細々した部分も全て通訳できるが、
話の途中で通訳者が「あ、これ意味が反対になってしまった」などと気づく場合もある。
(当然ながらここで“訂正”を入れる)

手話通訳の幅の広さは非常に広く、対話の通訳であればわかりやすく噛み砕いたり、表現を変えたりもする。
本当は病院などで通訳して頂いたとき、まずは先生の発言をそのまま通訳していただいて、
自分がわからないとき自分から「つまり、どういうことですか?」と尋ね、
“先生の噛み砕いた説明”を通訳していただくのが正しい。
(通訳者が勝手にそれをすると通訳ではない)

また、対話の通訳は通訳者も追いつかない場合は「ちょっと待って下さい」と話を一時停止することが出来る。
したがって、その人にとってわかりやすい表現で通訳を行うことが出来る。

これが講演など一方的に話されるような場面、通訳対象者に幅がある場面ではそれは非常に難しい。

ろう者にも国語力の差や、イメージ力の差がある。
その差は「手話通訳者」にもある。

ろう者側が「日本語に沿った表現で通訳して欲しい。」に対しては「手話通訳者の多く」はそれが出来るであろう。
(手話通訳者も日本語話者であるため)

逆に「イメージに重点を置いた表現で通訳して欲しい。」に関しては相手にもよるので、それが出来る人はそう多くは居ない印象。

私には非常に印象深かった経験があって「手話サークル」に顔を出したとき
「手話通訳者として活躍している人」がある高齢ろう者への説明に非常に苦労されていた。
私がその通訳の方と目があい“助けて〜”という目をされたのでフォローに入った。

なるほど、手話メインで会話をされており、イメージで手を動かす表現をされる人。
日本語に沿うような手話表現での説明ではわかりにくい方だった。

私は経緯や流れをある程度把握したあと、「脳内スイッチ」を切り替え「イメージ重視の手話表現」を使用し始めた。
(いわゆる“ろう者手話”といわれたりするもの)
通訳者が普段の私の話し方と違うのを見て心底驚いていた。
しかも、恐らく長い時間やり取りしたであろう会話が、あっさりとその高齢ろう者の方に伝わり、笑顔になられた。

手話通訳者としてもこれが出来る方は私が知っている範囲でも数える程度しか居ない。

ろう者であり、手話をメインに使っている人であっても「日本語に依存している方」は
そういった高齢のろう者の方とは話が通じない事が多い。

こういう例もある。
ろう協の社会見学で「ろう高齢者施設」へ訪れたときのことだ。
ろう高齢者の体験談をご本人の言葉で話される時があった。
ろう・聴取り混ぜて30人ほどその時は居ただろうか。
彼のお話をそのまま理解できたのは2名ほどの「ろう高齢者」、私と相方くらい。
聴者と若めのろう者は全滅。
彼の話を解説してくださった施設の方の話でやっと理解するという状況。

手話通訳者自身もずっと修行だと思うが、ろう者自身も修行が大事。
世代を越えた交流ももちろん大事。

今は教育環境も良くなってきており「国語力」の高いろう者も増えている。
だが、その反面、イメージ力が弱くなっていると感じることが時たまにある。

私は手話歌制作家で「歌詞」の持つ意味合いなどをどう表すかに毎回苦労している。
歌詞通り直訳すると意味が通らない手話表現になることも多い。

音楽というのは文字を追いかけるものではない。
いろいろな要素が含まれている“作品”を楽しむものだ。

従って、聴こえるから出来るものではなく、「何度も練習」を重ねないと歌えない。
むしろタイミングさえ掴めてしまえば声に左右されない分、ろう者のほうが歌いやすいかもしれない。
手話を知らない子どもたちのほうが覚えるの早いのはそれが理由かもしれないですね。

なにはともあれ、手話通訳に携わる人にもそれぞれの苦労があり、
通訳をしている間は「如何に伝わるか?」を考えながら通訳している。

そこに日本語対応だとか日本手話だとかいった不毛な話は持ち込むべきではないと思う。
会話の中で「ろう者的な手話表現」を当たり前に使っている方でも「講演」という場では
「日本語対応手話」みたいな表現になるのだから。

ろう者も手話通訳をやる聴者もこのような区別…「これはダメ」、「こっちが良い」などと言っていると
本来の目的を忘れてしまう。(何を通訳してもらってるの?)

大事なことは伝える・伝わることだ。
これは絶対に忘れてはならない。

 

nightfox-hq | comments(0) | - | pookmark | category:言語考
Home >> 言語考 >> 日本手話と日本語手話

日本手話と日本語手話

最近、再び「日本手話」、「日本語対応手話」という違いについて「それとこれは別」という論調が見受けられる。
正確には「ろう者向け手話」、「日本語対応手話」の違いかな。

まず、最初に言っておくべきは「手話は言語である」ということ。
日本にある手話は全て「同じ“手話”という言語である」ということだ。

勘違いしている人が多いのだが、「ろう者向け手話」という言い方は“時として失礼に当たる”ことを忘れてはいけない。
「日本語対応手話を理解できない」=「日本語能力が低い(国語力がない)」と言っているも同じだからだ。

確かに、手話をメインに使用して長い高齢ろう者の手話は「日本語に訳すこと」が難しい。
同様に、日本語をそのまま手話に置き換えて「訳せたか?」というと非常にわかりにくいことも多々ある。

本来は「日本手話(JSL)」であり、それ以外はない。
例えば「日本語対応手話」というのは「日本語話者」の発言を「同時通訳したもの」と考えて欲しい。

講演の時などは、どうしても丁寧な話し方になる。
普段が日本手話話者であっても日本語対応手話に近い表現が増えてくる。
また、同様に日本語話者が話すことを「聞いて直ぐに通訳をする」場合、日本語対応手話に近づいてしまう。

個人が自分の意志で話す場合はもちろん日本手話の比率が以上に多い人でも、こういったケースだと格段に日本手話は難しくなる。

手話そのものに「敬語表現」がないことも大きな要因である。
(注:敬語に相当する手話がないだけで“敬意がない”または“丁寧な表現”が出来ないわけではない。)

健常者でも居るんだが、普段からぶっきらぼうな会話しかしていない人は改まった席を苦手とする。

高齢ろう者に多いのは「必要なこと」を「シンプルに伝える」ことを重視している。
よって、日本語の流れというよりは“イメージ”をそのまま手話で再現すると思って欲しい。

手話表現において、手話表現の前後する状況は「中国語」のようだと例えることが出来るかもしれない。
「春眠暁を覚えず」という日本語文を中国語(漢詩)で表現すると「春眠不覚暁」となるように。

また、手話に関する講演でも度々出ているが「押し花」を「押す+花」であると日本語としてはその通りだが、
文字通りにすると「押したあとに花が咲く」という表現となる。
この場合は「押し花」ではなく「花押し」とし「花+押す」とやったほうが完成物に対するイメージが正確になる。

会話においてはいわゆる日本手話でも通じる限りは問題はないが、
日本音声(或いは原稿読み上げ)の場合はこのやり方では苦しく、どうしても日本語の並びに影響される。

このような前提や実情がありながら、日本手話、日本語対応手話と分けることがおかしい。

あくまでも手話というものは一つであり、用法において“砕けた用法”と“堅苦しい用法”との幅があり、
その幅が完全に日本語文法のルールに従っていないものを“砕けた用法”とすべきであり、
逆に、講演や指導におけるお固い話には“堅苦しい用法”を使うと考えてもらいたい。

そこにはイメージ重視の砕けた用法と丁寧さを重視した堅苦しい用法という両極端があって、
その段階に応じて身振りに近い(イメージの再現)から日本語の文脈に沿う(日本語の再現)表現まで幅があるのだ。

私は手話歌制作家ゆえに、歌を手話歌にしていくのが仕事ではあるが、
歌詞そのものが通常の日本語ではなく、「比喩」であったりなどで単なる直訳ではおかしくなってしまうものが多い。

そんな状況下であるから「イメージ重視」で作っていくため、日本語通りの手話の並びにはならない事が多い。

また、音楽は芸術であるため「美しさ」というものも必要である。

実際の演奏の中でもいわゆる(ギターなどでいう)コード弾き(和音)でのドレミファソラシドでも音楽として成立するが
ノート弾き(単音)での演奏で弾くとドレミファソラシドに幅が広がり、
7音が何通りもののノートで演奏するため雰囲気はガラッと変わる。
単純にコードで弾くよりも幅がある分、音の広がりが広がるのだと私は思う。

これも一つの例だが小学校で習うリコーダーはソプラノ。
音域がソプラノの位置。
中学校で習うリコーダーはアルト。
音域がアルトの位置となる。
また、楽器によっても同じドレミファソラシドでも聴こえ方が違うので
この究極の形がオーケストラとなるのではないだろうか。

手話歌も同じで、意味は同じ手話は数あれど、この歌にふさわしい表現というものがあり
この組み合わせや、動き方によって雄弁に、または華麗にと様々に見る人に伝える印象が変わる。

私が手話歌制作家として腐心しているのはその歌の魅力を如何に表現するかなのです。
なので、どうしても時間はかかるし、聴こえたとおりに手話をすればよい(通訳的に)のではないので
覚える練習もしなければならないし、研究や観察など積み重ねてこそそれが実現できる。

改めていう。「手話は言語である」
そこには日本手話、日本語対応手話という区別はない。
あえて言うならばどっち寄りというものがあるだけだ。

高齢のろう者にも通じるような手話表現をしたい、覚えたいという想いは理解できる。
昨今は若い世代の手話も日本語に寄った表現が多く、この表現では高齢のろう者の方々にはスムーズに通じない。
それだけ、書き言葉を手話でやっているようなもの。

それを乗り越えるには第一にイメージを思い描き、手で再現するという想いがなくては実現しない。

私もどちらかというと、イメージ的な手話表現と日本語に寄せた手話表現と持っており、
比率としてはだんだん日本語に寄せた手話表現が増えている。

完全に「イメージに寄せた手話表現」で話さねばならない時は、さしずめ「国際手話」をやるがごとく
自分の中の“スイッチ”を入れなければならない。

このスイッチの切替で普段の私の手話表現を知っている方は非常に驚く表現が飛び出す。
このスイッチは実は日本国外の手話話者とのコミュニケーションでも入る。

手話学習者にはどちらか一つではなく、幅広い表現方法を学んでもらいたいと切に思う。
 

nightfox-hq | comments(0) | - | pookmark | category:言語考
Home >> 言語考 >> 和歌を歌う

和歌を歌う

私は国語が専門です。
とはいっても「学位」や「号」は持ってないんですけどね。
“国語”関係は全部学んだなぁ…で大学辞めちゃったからね(^_^;)←これホント。

万葉集の巻の1、第一歌 天皇御製歌を中学か高校で「ナンパしている!!!」と言って、怒られ、
大学で「確かにそうとも言えるねぇ」と褒められた私(笑)

本当は万葉集などの和歌は「詠み人知らず」の「防人の歌」なんてのが好きなのですが…
“万葉集”とは何か?と尋ねられると「一番最初が天皇さんのナンパで始まってる人間臭い和歌集です」と答える人(笑)

奈良・飛鳥時代から非常に長い時間が経っております。
759年から780年に成立したとされていて
原本は存在せず、現存する最古の写本は11世紀後半ごろの桂本万葉集(巻4の一部のみ)、
完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集が最も古い(以上Wikipediaより抜粋)
2020年の現代から考えると1000年は軽く経っている古い和歌集な訳ですね。

なので、実際にどんな風に詠んだか…それは分からない訳ですね。
鎌倉時代の「平家物語」いわゆる「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり」で始まる物語。
日本のホラーな昔話として「耳なし芳一」で知った人もいるかも知れません。
この「芳一」さんも琵琶法師。
琵琶法師というのは今で言う「ギターの弾き語り」に似ていて、
琵琶を演奏しながら語る…語るといっていますが歌います。

ちなみに「琵琶法師とは昔の“流しのギター弾き”だ!!!」と言って怒られ、
大学で「そうとも言えるわねぇ」と褒められたという複雑な経験を私は持ってます(笑)

さておき、こういう経験があるからかわかりませんけど、随分昔にろう者でギタリストであり、
かつては私のギターの先生でもあった「岡本大助」くんと「辞書をひいて、そこに載っている内容をギターで弾く」
そんなおバカな遊びもしてました(苦笑)

実際、「どんな風に歌ったか?」となると1000年以上も昔なら正解なんて誰もわからんのです。
今で言う「チャラい奴」風に歌ったのか?
オペラ風に演技かかって歌ったのか?
それは、その当時の人にしかわからないんですよね。

一応、琵琶法師の「平家物語」を聴いたことがあるので、
リズムや調子、雰囲気的には「こんなのじゃないかな?」というものはあります。
恐らく、日本人ならわかるような雰囲気ですかね。

ただ、それでも正解に近いかはわかりません。

令和の現代は当然ながら平成や昭和の歌を知っている方はおられるし、
何らかの記録媒体で歌声なども保存されていますね。
これとて、そういうのが広く広まったあとに残るものなので、
それ以前のものは残らないんですよね。

アイヌのユーカラのように“口伝”で伝わっているものもありますが、
これとて、3世代前に聴いた人とは“内容はほぼ同じ”であっても
リズムや調子などは微妙に変わってしまっていると思います。

軍歌というと嫌がる方もいらっしゃいますけどこういう類の曲って
いわばアニソンのように“気持ちを高揚させる”効果がある…というね。
ですので、意外と軍歌って第二次世界大戦に出来たと思われる方多いですけど
明治維新の頃だとかそういう「対戦以前」に出来た曲が多いのですよ。

今も警察音楽隊などで歌われている「警視庁分隊行進曲」(抜刀隊・扶桑歌)など
これは成立が明治19年といわれていますね。
この辺りは古いといえば古いのですが、当時現役だった人がお亡くなりになる前に
記録媒体に残しているということで当時の雰囲気なんかもわかるんですね。

そうなるとそれ以前のものになると…当時現役だった人が記録媒体が生まれる頃に
そのときに生きている…記録したとは言い難く、いわゆる伝統の継承者の歌声になってしまいます。

このように記録媒体、それも音声ともなると残しづらい。
そう考えると万葉集や古今和歌集のような約1000年(約10世紀)も前のものなんて、
想像でしか無いわけです。

ただ、逆に面白いなと思ったのが下記のリンクにもありますように、
書物でしか残っていない“和歌”に音楽をつけ歌うという人が居てるんですね。

古人いわく“今様”というのかも知れませんが面白い試みです。
私も今聴いておりますが、なかなか面白い。

皆さんも是非一度お聴きになってみては?と思います。


 

nightfox-hq | comments(0) | - | pookmark | category:言語考