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再変換

ちょっとプライベートで起きた出来事であまり気分良くありません。
でも、起きてしまったものはしょうがないと前に進むしか無いですね。

今回は日本語と手話の再変換というものについて書きます。
これは手話歌にのみならず、音声である日本語と視覚表現である手話はそれぞれ別の言語であるということでして、
手話学習者の方にも参考になるかと思います。

私は歌の歌詞を読み、イメージに落とし込んでそのイメージを手話として構築しているのですね。

ところがその作った手話歌を指導する時は日本語に再変換して説明をしなければならない。

世の中、ナチュラルアプローチなんて学び方もあるんですが、
これ想像力が表現者(指導者)Aと同等か以上でなければ実は成立しないんですね。
物事の事象を指し「手話で表現」、表現者(生徒)Bは事象と手話表現を見て“紐つける”
これには「これをこうやってこうしてこれみたいに」という別言語での説明はありません。

余計なものが間に入らないということで割とそのままトレースしていただいて覚えてもらう感じ。

しかし、元になる言語で紡がれた文章を別言語に変換するにはどうしても元言語が邪魔をしてしまいます。

英語歌詞の歌を意味はよくわからないけど覚えて歌う…のと、訳して日本語で考えながら英語歌詞の歌を歌う。
その違いみたいなところがあります。

英語を翻訳すること無くそのまま覚えて使うのはある意味ナチュラルアプローチです。
ですが、一度でも別言語に置き換えてしまうと本来の英語が持つニュアンスが欠けてしまうことがあります。

手話も同じで、日本語のように回りくどい表現をしません。
だからといって、手話に日本語のような詩的な表現などが無い訳ではありません。
手話には手話ならではの日本語にはない詩的な表現などがあります。

手話学習者が陥りやすいのは何か?
手話を使うのに「日本語」の感覚で使うことです。

最初に英語を例に出しました。
同じ内容、同じ意味的なことでも日本語と英語のそれとは全然違うでしょう。

手話も同じです。
日常会話の場合、慣れてくると手話を日本語のルールに振り回されず、
手話のルールに従って表現できるようになるんですが…
絵本の朗読や歌などを手話でやると思いっきり日本語に振り回されます。

事象があって日本語で「装飾的、詩的表現」で表現する。
ここには日本語で書かれている文章通りではなく「本質」があり、
それを飾っているのです。

敬語や尊攘語などはそのわかり易い例で
「来る」はそのままなんですが「来られる」、「御出でになる」などと敬語、尊攘語として「来る」と言わずに
別の言い方が日本語ではあるんですね。

要は「来る」んですけどね。
ここに何らかの装飾や詩的表現が入るのでそのニュアンスが感じられるという。

手話だと日本語と同じような装飾や詩的表現はしないんです。
手話には手話ならではの装飾や詩的表現をするので、これをそのまま日本語訳すると日本語らしくないということもあります。

手話歌は元になる歌が日本語音声で流れますから、これが邪魔をします。
皆さんが何かを語ろうとしたときも同じで、日本語で考えた後、手話で話そうとすると
何か矛盾した表現になってしまうこともあると思います。

まさしく、日本語に振り回されている。

そこで大事になるのは再変換です。
日本語というのは柔軟にできていまして、多少順番を入れ替えても
伝えたい内容は届くというところがあります。

例えば、主語の位置が頭ではなくお尻につけても同じ意味になります。
述語もそうです。

言い方でニュアンスが変わる事はあっても“内容”そのものは変わりません。
この“内容”を“本質”と捉えてみると、それさえブレなければどんな言い方もできます。

ちょっと乱暴な説明ですが、一度このあたり考えてみては如何でしょうか。
どこかでつまっている場合、考え方一つでスッと理解し、表現できるようになるかも知れません。

 

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正確には手話ではない手話たち

最近、手話に関しての考えを各所で述べるようになる機会を得ました。
私のスタンスを先に述べておきますと手話は「日本手話」という派です。
更に、この日本手話は「日本語」、「英語」、「フランス語」、「中国語」、「マレー語」、「スワヒリ語」など
世界中で使用されている「言語」としての位置づけは同列としています。
即ち、「日本語」に音声や筆記という表現方法があるので「手話もまた(言語の)表現方法だ」という方もいますが、
これは「言語の“表現方法”」であって“言語そのもの”ではありません。

この複雑かつ多様化した現代社会において「言語」が担う役割も非常に重要になっておりますが
日本語としての「言語」と手話としての「言語」は同等かつ別物と理解ください。

最近はGoogle翻訳などで言語の違いによる意思疎通の敷居は下がってきている感はありますが、
アメリカ在住時に英語ならではの言い回しを日本語で理解することが難しく、
私の母国語である日本語を英語へ置き換えるのも難しいケースはたくさんありました。
手話も同様です。
文章通りに手話翻訳すると意味が通らないということはザラにあります。

しっかりとした「理解者」が翻訳する場合は意味が通じる翻訳ができます。
これは日本語→英語→日本語といった逆翻訳をやってみればわかります。
直訳では意味が変わってくるということがね。

ですので、手話も表現を考えるとき、日本語から離れる必要があります。

そこで、正確には手話ではないんだけども、私のような聴こえない人と聴こえる人が意思疎通を実現した例を下記に述べます。
今回は数多くある意思疎通の中から「趣味性の強いもの」を例に出したいと思います。
仕事の場合は勤務上「必要」だから「ある」のですが、「趣味性の強いもの」は別に「必須」ではありません。


この写真は1990年当時の日本GPでのマイケル・ドゥーハン選手です。
搭乗しているマシンはホンダNSR500、ロスマンズホンダチームから出場しました。

この時代は市街地では暴走族、峠や埠頭などでは走り屋という集団が居た頃です。
私もその例にもれず、走り屋をやっておりました。
どういったものかというと“公道レーサー”ですね。

確か当時は16になればバイクの免許!!!で、私の世代なら先輩から後輩までガンガンバイクに乗っていた時代だと思います。
ここでは走り屋がどういうものかという話ではなく、“意思疎通”にどうしていたか?がテーマです(汗)
(危うく脱線するところでした:苦笑)

関東だと「いろは坂」、関西だと「六甲」、「南港(N港と記載)」など。
聴こえる人も聴こえない人もめいめいに一箇所に集まって走ってるんです。
まぁ「公道レーサー」の時点で道交法違反ですから「違反は違反」ですが、
お互いに「ここではこうする」、「こんなときはこうする」というローカルルールを決めています。

サーキットと同じようなことを一般公道でやっているのですから転倒する人も勿論います。
ひとたび転倒が起きるとギャラリーも含めて一般車両を止めたり、転倒車両を回収したり、
奇妙ですが一種の“連帯感”がありました。
そこには「聴こえない」ことは関係ありません。
「上手い」か「速い」が答えになります。

そうなると何が起きるか?といいますと自然とバイク談義みたいなのが始まるのですね。
どう走れば速くなるか?など…。

ちょっとした実験なんですけど聴こえる方と私の居たバイクチーム自由騎兵のメンバーでサーキット当てクイズをやりました。
当時の鈴鹿は8時間耐久などで東の富士(スピードウェイ)、西の鈴鹿(サーキット)で有名でして、
そのコースレイアウトを手を使って表現。
親指が上で頭も兼ねて指先はフロントとして動かします。

聴こえる人だろうと聴こえない人だろうと差はなくどちらも答えることが出来ました。
つまり、この手の動きはバイク乗りであれば基本的に同じイメージを持つということですね。

また、コーナリングのときの状態をたった一つの手で表現していきます。
前輪荷重、後輪荷重もあるし、アクセルワークはエアでアクセルのひねりを表現しますし
ブレーキの掛け具合もエアで表現します。

私の場合はメカニック系(走るのはそんなに速くない)だったのであらゆるパーツを手で表現。
今は無きバイク屋さんのメカの兄さんや走り屋の常連さんたちとはこれでほぼ通じていました。

多くの人はブレーキ=自転車のブレーキレバーをイメージします。
私たちメカの方になると「ブレーキ」はブレーキを掛ける動作のことであり
ブレーキそのものを意味しません。

バイクにもあるブレーキレバーそのものは同じ動作ですが、
パーツとして「(ブレーキ)マスターシリンダー」、「(ブレーキ)ホース(オイルホース)」、「(ブレーキ)キャリパー」、「(ブレーキ)パッド」、「(ブレーキ)ディスク」
もっと言うならキャリパーユニットをバラすので「キャリパーピストン」など細部の部品も表現します。

こういった話を手を使いながら話すとお互いがよく分かるため次回からはその表現が活用されます。
ただし、分かる人同士でないと通じないので非常にローカル的で、ワークサイン的な表現ではありますが
手話かと問われれば手話みたいなものではありますけど「厳密に手話」とは言い切れない。

今回はバイクの話を例に上げましたが、同じものをイメージ共有出来る環境下にあると手の動きで通じ合える。
逆に言えるのは如何にイメージを共有化出来るかが大切だということ。

逆に日本語話者同士、英語話者同士、手話話者同士であってもイメージを共有できない限りは“真”に通じ合うことはない。
なまじ、「コトバ」が通じてしまうから行き違いが起きるし、起きていることにも気づかないのであろう。

大事なのは互いに「伝えよう」という思いだと思う。
そのための手段が言語のもととなったとも私は思っている。

 

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言語脳

最近、手話に関して考察をまとめている。
一つは人間は考えるとき「何語」で考えるか?である。
本当は、見たままをそのまま頭に思い浮かべるのだが、
そのプロセスから直ぐに「言語化」するというケースが多い。

日本語でモノを考える…などはわかり易い例。

私も例にもれず、日本語でモノを考える方だとは思う。
何故ならば目に見えるものの多くが日本語などの“活字”であることが多いからだ。

しかし、風景や事象そういったものに関しては「日本語でモノを考えない」

見たままを再現しようとすると「日本語」が邪魔になる。

物事を「日本語化し、表現する」ことは一つの方法ではあり、同じものを他者に伝えるには必要な作業だと思う。
本来、人類はそうやって言語を編み出してきた。
だが、「日本語にない」情景、事象においては「日本語」では冗長になり「短い1語」で表現ができない。

面白い対比だなと思ったのは日本語脳と英語脳の違い。

基本的に英語は主語がありその次に動詞がある。

I Sleep with the cat.
直訳すると「私は猫と寝る」
絵を書くとき自分が寝ているシーンを描く、そばに眠る猫を描く。
冠詞が“The”であるのでいつも決まった猫…飼い猫だろう。

英語だと聞いたまま絵を描いていっても大きな変化はない。
(絵心の有無は別(笑))

ところが日本語で「私は猫と寝る」ということを文字通りに描くためには最後まで聞かなければ描けない。
つまり、私は猫と一緒に居るという絵は描けるだろうが、「それからどうした?」がわからない。
予測して「私は猫と遊ぶ」という絵を描いたとき「寝る」となって慌てて描き直す。
そういったケースが起きやすい。

今回短い文章を出したが、普段はそんなに短い言葉ばかりで会話をしているわけではない。
と、いうことは日本語は最後の最後で予想を裏切ることが出来るのだ。

「私は猫と寝ない」→最後まで聞いたから「猫と一緒に寝ない」ことがわかる。

I dont sleep with cat.

英語だと最初の「I dont sleep〜」で寝ないことがはっきりしている。

こういう、日本語脳と英語脳の対比を考えて手話はどうか?と考えると
「猫と一緒に寝る」シーンをそのまま再現するので手話脳はまさにイメージのまんま。

例文が非常に短いのでどっちの脳で見ても同じようなイメージとなっているんだが…
もし、これが非常に長い文章だったらどうなのだろう?

手話を使うにあたって私は「手話という言語は一つしかない」と常々言っている。
その幅に関しては「イメージ重視」から「日本語文法重視」までの幅がある。

高齢者の場合は教育の関係で日本語語彙が少なく「イメージ重視」表現を主とする。
ここで誤解してほしくないのは、日本語語彙が少ないだけであって知能レベルが低い訳ではないのだ。
現に「イメージ重視の手話」であれば彼らは雄弁に物語る。

逆に日本語教育が進んでいる弊害か、「日本語寄りの手話」に浸ってしまっているからこそ、
世代分断が起きる。

学校教育を受けることは重要ではある。
しかし、「イメージ能力」を徐々に失っていくのが多いように思う。
思春期を中心に「厨二病」なる言動をとる児童がいる。

彼らは「定められたルール」を設定し、「それに従い」、「イメージの中」で暮らす。
イメージの中では「魔法」を使えたり、「特別な任務」を帯びていたりと現実ではありえない事が“真実”であると振る舞う。

ここで注目していただきたいのは「イメージの中で“真実”であるように振る舞う」ということ。

見えないモノを見て、聴こえぬものを聴く。
それを再現するには日本語では難しい。

何故ならそのイメージは彼らの中にあるからだ。

手話歌制作家をやっていると「日本語」を直訳すると「おかしな手話表現」になってしまうことが度々ある。
それは当然だろう。
何語であっても文章とはイメージではなく、言語を音声化または筆記化したものに過ぎないのだから。

手話は本来言語として一つであり、これをそのまま再現することはイメージである。
イメージすることと手話表現することは重要な関係にある。
そして、多くの場合イメージを手話表現にそのままするほうが容易い。

文章にするには、その言語化する必要があり、日本語なり英語なりとする。
その上で筆記や音声とするのだ。

厨二病らしく「炎の魔法」を私がやってみるとする。
最初は手のひらに火がつき、メラメラと燃える。
段々とその火は炎となり、火炎なり、轟炎なりと大きくなる
使っている手話は火の動きを再現しているだけだ。

その表現の違いを日本語に変えているから火だの炎だのと言葉が変わるだけ。

燃え盛る炎に包まれたような表現をしているのに「火がついている」と言っても間違いではない。
規模に合わせて言葉を変えていってはいるが、あくまでそれは日本語でありその言葉の表す意味と
その表現をしている人の中の頭のイメージとは違っていることは普通にあると思っていただきたい。

ただ、表現力のある方はそこにないものがあるようにみせることが出来る。
パントマイムなどはまさしくそれである。

状況の説明は出来ても、恐らくその言葉でイメージは伝わらないだろう。
見たままを感じ、感じたままを見せる。

手話脳というものがあるとすれば「言語に左右されない“イメージ”を先に思い浮かべる」人であろうか。
日本語に振り回されている人が居るとしたらそれは「イメージ力」が足りない。
手話をやる上で困難を感じたならそれはイメージではなく言葉に引っ張られている。

まずはイメージを思い浮かべる訓練をするといい。
モノを決めつけずに観察するのも大事。
じっくり観察していると思わぬ動きなどもあるのだから。

 

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