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カヴァーするということ。

最近、楽曲の使用について考え方をもう少し上位に持っていかないといけないなと考える。
例えば、かつてギタリストの岡本くんが私に教えてくれた内容に「キー」とは何かというテーマがあった。
本来なら譜面どおりに演奏するのが通常の人の考え方であろう。

だが、“歌える”事と“似せる”事は別の問題だと私は考える。

例えば山口百恵さんが歌った「いい日旅たち」…楽曲の提供は谷村新司さんではあるが
女性である山口百恵さんの声と、男性である谷村新司さん(山口百恵さん引退後セルフカヴァーもしている)
どう考えても声の感じは違い、もちろんキーも違うであろう。

谷村さんはどうやっても山口百恵さんの声は出せない。
むしろ谷村さんの声は谷村さんならではの声がある。

私自身は音声で発表される作品に「手話というものをベースにした表現を制作する。」
これは音声と違い、目で見える表現である訳なので、外国語翻訳版(英語カヴァー的な)意味合いに近いと思っている。

何故そう思うのかについては、カヴァーのあり方に関しての権利というしがらみがあるからだ。

楽曲において、
原曲に新たに編曲(アレンジ)を加えて使用する場合は注意を要する。楽曲を編曲する権利(翻案権)は著作権者が専有しており(著作権法27条)、著作者は自身の「意に反する」改変を禁じる権利(同一性保持権)を有している(著作権法20条)。というルールが有る。

私自身は著作者の意に沿うように手話歌という制作方法で実現を目指している。
すなわち、その心は、原曲が持つイメージや著作者が大事にしているものは出来る限り変更を加えない。
手話と声という言語的違いがあるためかなり違った表現になっていると言われてしまえば確かにそうだ。
だが、その楽曲において伝えたいものやメッセージ的なものは歪めてしまってはならない。

だからこそ、どうするべきかなどを苦心して一曲一曲を大事に制作させて頂いている。

最近は独学で学びキーボードやピアノを演奏しながら歌っている視覚障害者の方と知り合いになったのだが、
誰かの曲をただ演奏する、歌うというのは非常に勿体無い。
譜面は読めないため耳コピでたくさんの努力の結果歌えるようになっていることを考えるに、
その方の「カヴァー曲」といっても差し支えないし、そう考えるくらいの“彼ならでは”の歌い方や魅せ方というものがあるはずで、
原曲に対する敬意を持って“彼ならでは”の歌い方・演奏の仕方というものを矜持を持ってやってもよいのではと思う。

先程山口百恵さんと谷村新司さんの2つの版の「いい日旅たち」を参考に出させて頂いたが、
女性ならではのキーから男性ならではのキーに移行する場合、演奏もそれに合わせて聴いているお客様が気持ちよく聴けるようにアレンジは加えているはず。
かつて、バンドブームの時、プリンセスプリンセスの歌を男性ボーカルが歌ったのを見た時、妙な違和感を感じた。
演奏そのものはプリンセスプリンセスのオリジナル楽譜に合わせて演奏されてはいるが、
歌声は野太い声であった。
元のプリンセスプリンセスの歌を知っていると余計に違和感を感じる。
恐らく、岡本くんの言う“気持ち悪い”感じになっていると言っても良いかも知れない。

そんな無理矢理な感じで演るくらいなら、気持ち良い演奏を行い、気持ちよく歌って頂いたほうが
リスナーは楽しめると思う。

クラシックの世界で恐縮だが「G線上のアリア」だけを集めたCDを私は持っている。
どの曲も「G線上のアリア」を演奏しているのだが、演者によって「〇〇版」という感じで同じタイトルの曲なのに
伝わる印象は違っていた。

手話歌演者の弱点はキーというものに無頓着なところがある。
手話歌そのものにもキーに相当する表現の差異はあるのだが
バックで流れる曲に対する“あり方”に関してはあまり考えはしないのかなと思う。

私が歌う「岬めぐり」も本来は山本コータローとウィークエンドさんがオリジナルである。
私はこの歌の意図や、心情、背景などをじっくり研究させて頂いての歌として作り、
それでも表現が手話歌であるため「徳田のカヴァー版」と山本コータローとウィークエンドさんに敬意を払いながら 彼らの意に反しないような表現を心がけてきた。
(本人が見ておられないのでその意を汲めてるかは不安が残るが)

何らかの障害を持っているとどうしても色眼鏡で見られてしまう。
そして多くの場合「福祉」の枠組みと見られるため、純粋な表現に対する正当な評価はどうだろうというのが現状。
だが、音楽を演るものとして「矜持を持って」活動し続けるならば「福祉」からはどんどん遠ざかる。

わかりやすくいえば「良いものは良い」と思ってもらえるか否か…これは「福祉」ではなくエンターティメントの世界である。
最初は自分の持ち歌が少ないためカヴァー曲も含めての公演が多いのは否定できないが、
「誰々の歌を自分がカヴァーする」という想いを持っているだけで大きく意味が変わると思っている。

私にとっては聴覚に問題が確かにあるが、手話歌表現に関しては聴こえる聴こえないはこの際関係がない。
私の手話歌表現を見て心情や情景、歌に込められたメッセージを如何に表現して届けられるかが本当の問題。

視覚障害者の若者と先日深くお話させて頂ける機会を得たが、
既にスティービーワンダーのようにスターダムに上り詰めた方だって居る。

スティービーワンダーがやっていることは「福祉」か?
立派な音楽活動の積み重ねが今の彼を作っていると思う。
それは立派なエンターティメントだろう。

先日、岡本くんも聴こえる方々のバンドの中で岡本くんの“最高”の演奏を見せた。
これは聴こえる聴こえないは一切関係がない。
もちろんバンドゆえのコミュニケーションなどではご苦労もあったとは思うけども
このライブに関しては彼の必要なパートを“ジョブ”として最大限発揮したに過ぎない。

どう見るかは人それぞれではあるが、ステージ上では障害の有無は関係ない。

最初は“踏み台”として、障害者でありながら頑張っている姿を通して名前を売ることもありかとは思う。
(使えるものは何でも使え!という考え方に照らし合わせるとチャンスは多いほうが良い)
多くの場合はそこで止まっているようにしか見えない。

「福祉啓発」という方向は否定はしないけども、
ひとりのミュージャンとして工夫と努力でモノにする…それが必要ではないだろうか。

お笑い芸人によしもとクリエイティブエージェンシー所属の濱田裕太郎氏が居る。
彼がやっていることは「福祉」か?
はっきり言ってひとりの芸人であり、通常ならタブー視されてネタにしづらいことでもネタにする。
立派な“芸人”としての道を歩んでいる。
福祉へ絡むネタはあっても全体的には“お笑い”というエンターティメントの人間だと思う。

今回知り合った彼にもミュージャンとして「福祉」単なるおまけ、踏み台として、
彼ならではのエンターティメント、今はそれが9割誰かのカヴァー曲であっても
彼ならではの演奏、歌い方、魅せ方を確立できれば「カヴァー歌手」でもあり、オリジナルソングも歌えるという
彼にしか出来ないことを演ればよいのではと思う。

それぞれの矜持を心の底から強く持ち、地道に頑張っていけるのなら、
いつの日か福祉の枠組みに囚われることなく障害の有無は関係なく“いずれはメジャー”という道筋も出来るだろう。

障害の有無は関係なく多くの方々と繋がりを得て、
今更ながら私も心の底からそれは些事だ。と言い切り
自分にとって出来ることを最大限に活かしつつ、幅を広げていきたいと思う。

そのためには「原曲への敬意を持って“誰かの歌を歌わせて頂いています”」ではなく、
「原曲への敬意を持って“誰かの歌をカヴァーさせて頂いています”」というようになりたいと改めて思う。

 

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新しいプラン。(出会いに感謝)

本日、福祉展などで何度かお目にかかっている方と直接お話する機会が得られました。
その方は視覚障害のミュージャン(キーボード奏者)でございます。

まだ、初めて言葉をかわし…ということで彼の口を読むのは慣れてなくて難しいのですが、
今、仲良くさせて頂いている視覚障害の御老体(といっても非常に男前で元気なお方でございます)との経験や、
過去に関わらせて頂いた“視覚障害者”に対する手話歌指導の経験から、
いずれはあけすけに話も楽しめるようになるかと思います。

私は手話歌を作り、歌う演者でもあります。
そして、彼は音を覚え、再現するカタチ(いわゆる耳コピ)で演奏し、歌う方です。

お互いにわからないものはありますが、逆に分かる部分もある…それを感じられたひとときでございました。

私は聴こえていた頃の時代を少々覚えているという立場で、
なおかつ、現時点ではほぼ、手話が第一言語というような聴覚の状態です。

かたや、彼は見えていた時のことは覚えていない…完全な失明状態であります。

彼にとっては人混みは誰かの声や音の中に居ますが、その目で確認することは出来ない。
私にとっては人混みは誰かがいることはわかりますが、何を話されどんな音が出ているかはこの耳では確認できない。

まさに対極といっても良い関係であります。

ヘレン・ケラー女史が話した言葉に
「視覚を失うことはモノとの繋がりを失う。聴覚を失うことは人との繋がりを失う。」と、あります。

ですが、確かに互いに「失う」ものがあるとはいえ、新しく「得る」ことも出来るはずです。

特に、私が目指しているものは「福祉」ではありません。
それぞれの障害の有り様を理解して頂くその流れは「福祉」からかもしれません。

ですが、音楽やエンターティメント…パフォーマンスの世界では「福祉」は本来関係がありません。
例えば音楽という楽器を演奏したり、歌をうたうことは「福祉」ではありません。
確かに移動やセッティングにおいては手助けも必要でしょう。
しかし、演奏している間はその時間は「自由」なのです。

私も手話歌という表現としてはまだ時代が浅いモノを表現する人ではありますが、
古くは舞踊にはじまり、現在ではダンスというものが身体表現としてあります。

日本での古いものですと、「日本舞踊」、「神楽舞」、「ソーラン節などの民俗舞踊」がありますし、
海外であればネイティブアメリカンの「ソウルダンス」(あえてそう言っておりますが、様々なシーンで踊りがあります)

視覚障害だとどうかというと、古くは「雅楽」、「琵琶」、「三味線」や「太鼓」に始まり、
海外ではスティービー・ワンダーのようなミュージャンがおられます。

違うものではありますが、同じ時間を共有するという空間は昔のほうがあったのでは?と思うことも。

私には彼の見る風景は見えず、
彼には私の聴く音色は見えない。

それでも、何かが出来る…とは信じてきた私ですから、
それは彼に対しても同じです。

聞くところによると彼は楽譜が読めない分、耳コピで数々の曲を身につけたとのこと。
そうなると、ある意味、私が目指している「誰かの歌を手話カヴァーする」というしっかりした作品への取り組みと
同じことをされていると言っても過言ではありますまい。

演奏しているところの動画も見せて頂きましたが、もしかすると私も彼に合わせて歌えるかも知れない。
どんどん想像の膨らむ、良き出会いでありました。

これからものすごく楽しみです!!!
出会いに感謝♪


 

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我が仕事は何たるや?

旧友との一夜のあと、仮眠の後、出動。
いわば運送を務めたと思いねぇ。

その道中に相方とも色々話しつつのひとときであった。
旧友が語ってくれたことも踏まえて、相方と自分のスタンスを確認した。
何処かで不安があると間違った考えに陥っているかもしれないので確認も込めて。

タイトル通り「我が仕事は何たるや?」の問に答は「手話歌を制作する」がメインである。
指導も、公演も講演ももちろんするけども、本来のウエートは「制作者である」ことと思う。

即ち、全力を傾け行っているものは「表現のあり方」を常に考えているようなものだ。
その蓄積が今の自分の力になっているということは旧友のいうところの“知的財産”というものであろう。

過去には著作権などの“制作者の権利”的な内容はここでも書いていたが、
制作者の権利の以前に、自分が何故これが出来るのかというと
作ってきた歌の数、生み出した表現の数、公演した実績、作るために何をしてきたかという積み重ねの一つ一つ。
それは財産ではないのか?

手話譜はもちろん宝物ではあるが、それはあくまでも表現方法を書き留めただけのシロモノ
本当の宝は自分の経験や研究の結果であり、その蓄積であると思う。
それがあってこそ、“今”「制作」出来るようになっているのだから。

結局、中退したが再入学までして10年大学行ってたのは何故だったか?
決して安い金額ではなかったはず。
一時は“教員の道”も考えたことは認めよう。

だが、本当はそれすらも些事。
「国語」を学び、「日本語」を学び、「言語」を学ぶ…それが一番したかったこと。
それに関する単位は既にとった…迷ったのは「学び」と「卒業」を天秤にかけた。
大卒の資格が欲しかったわけではない…で中退を選んだ。
私が大学で学んだことの多くは世の中には「博士」や「研究者」という道で更に上に行っている方も居るだろう。
だが、求めているものが違うのに籍をいつまでも置いていても仕方がない。

高校という教育の現場で13年実地でやっていた(今は辞めたけど)
それもまた「学び」と考えるならば、「今の自分」がこうしていられるのは
財産と言えるものがこの私のアタマにあるからだろう。

自分も旧友と話すまでは「権利の根拠」となる「何か」に関してはあやふやなところがあったのは否定できない。
根拠は自分のアタマの中にあったのに…だ。

自分が手話歌に命を削ってるような取り組み方をしているのは
それが自分にとっての宝だから…と整理してみればスッといく。

単なる手話歌で終わるようなもの…とりあえず歌を手話で…なら他にも居るだろう。
しかし、自分のやっていることは矜持を持っているならそれは自分にとっての最大の価値だろう。

ある例を考えてみた。
上映会などで作品を上映する場合、ひとりアタマ幾らという上映権を取る。
手話歌も同様のはずだ。

一人で歌うにも何処でやるにも耐えれるような作品を作ったのならば、
それを演る方々はそれで報酬が頂けるものを私が作ったことに。

そう考えると指導を受けた側が無料の場所で演るか、有料で演るかはその演者の問題であって
私自身はそれには“本当なら”関係なく、一曲当たり幾ら☓人数は頂く。
もっと早くにそういったルールを作っておけば要らない悩みやストレスを溜め込まずに済んだものを…と思ってしまった。

創作物をどう評価するかは見る人の勝手ではあるが、
自分の創作物の価値を決めるのは自分ではないか?
見合うものと思うならば値段が幾らであっても学びたい方は学ぶであろうし、
依頼したい方は依頼するであろう。

エルメスやヴィトンのカバンを「ただのカバン」と思うならそれでも良い。
確かにカバンだといえばその通りだ。

ブランドだから高い…これはモノの価値が分かってていっているのかどうかは人それぞれ。
良いものは良いで、必要と思うなら無理してでも買うだろうし、
用が足りればそれで良いと思うなら、安いのを選んで買うもそれは自由。

だが、これだけは言えるかなと思うのが、
ブランド品はブランド足り得る品質や技術の維持を求められる。

私の場合はどうか?20年前はそのへんの手話を知っている人が歌に合わせて手話するのと大差なかったかもしれない。
今は???「教える時間」だけを見てもわからない裏側の努力や学びを続けているから今のカタチ。
ならばそれに見合うだけの請求はするし、それだけの価値のあるものを作っているという矜持がある。

ましてやパフォーマーと言っても良いようなことをしていて、「福祉」がどうとかって全く関係ない。
私の手話歌のイベントを演るとしても読み取り通訳や手話通訳は付けられないよ。
福祉の範囲ではないから。

手話通訳者を派遣できる範囲の外で私は居る。
ならば「福祉ではない」と言っても過言ではないだろう。

ああ、手話歌を通して「手話に興味を持って頂く」とかそういう部分はあっても良いと思っている。
自分も手話を使える人が増えることや、手話は言語であるという認識が広まることは嬉しいことだから。
でも、それと“格安”や“無料”でやるのはまた別の問題。

ストレスをためすぎるとある日「ポックリ」と逝くこともあるそうだ。
その辺りは精神科の先生にも言われている。
若いからという問題ではない。

私が消えたらこのスタイルの手話歌は居なくなる。
(似ているのは居るかも知れないけど…徳田手法そのものは消える)

自分の価値とそれを続けていける将来とを見越して考えねばならないなと
本当に“わかってはいたけど、線引きが曖昧だった”のが自分の「お人好しさ」、「甘さ」であるだろう。

改めて自分も反省すべきはして、さらなる精進をせねばなるまい。
何故「五省」を自分の中に持っておきながら有効に使えないのか?
いつも反省ばかりしかなければ五省の意味はない。

【五省】
一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか
 (真心に反する点はなかったか)
一、言行(げんこう)に恥(は)づる勿(な)かりしか
 (言行不一致な点はなかったか)
一、気力(きりょく)に缺(か)くる勿(な)かりしか
 (精神力は十分であったか)
一、努力(どりょく)に憾(うら)み勿(な)かりしか
 (十分に努力したか)
一、不精(ぶしょう)に亘(わた)る勿(な)かりしか
 (最後まで十分に取り組んだか)

自省を込めてここに記す。

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