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Kレポート 健聴者の視点から(その2)

さて、今回は前回の続きです。
この回は、口が読める方の私にとっても非常に関係があります。

=====
Cは肺活量も小さければ声量も小さい。話すときの唇は大きく動かさない。
AはCの読唇を6割はしていた。
それで8割の理解をするのは、脈(バイタルのことではない)や気質も思考をも瞬時に組み込むから。

BはCの読唇だけでなく全般に苦手。
それでいて、気質や思考を知り得ていない初の接触で、3割の理解するのは、
脈(肌感覚みたいなことかな?)を気質や思考傾向よりも高く使えているとはず。
AとCの足りない2割を補えるBの3割ということだ。

聴こえないとき聴き返すが、ここで言い直す聴こえる人は、母音を強調してしまう。
すると、聴こえない人は更に聴き返すことになる。
この場合の聴くは声ではなく唇と舌のことだ。子音を聴き返していたのだ。

これは、子音から単語を探すのと、母音から単語を探すのでは、子音からの方がより近い単語にヒットするためだった。
アクセントの位置も聴こえないため「あか」が「赤」なのか「垢」なのかも単語を一つでは選別不能だが、
「たこ(蛸や凧)」と「かこ(過去)」の母音は同じ子音が違うので、
子音を読みたいが、子音を読まなければならないことが困難だと教わった。

子音は発生する直前の唇と舌の動きの組み合わせ・・・
えぇー、母音は何かと意識したことがあるけれど、
子音のために唇と舌がどんな動きをしているか考えたこともないと、気が付かせていただけた。
音声入力や音声認識のその前に、読唇認識人工発声の開発が先だったのではなかろうか。

=====

これを読んで思い当たるフシのある方は少なくないのではないだろうか?
私にとって「あいうえお」の母音は余裕。
よっぽどモゴモゴされなければ母音の判別は容易い。

だが、上記のレポートにある通り、多くの方は「語」を大きく出そうとするか、
母音を強く表す方が多い。
私が常々困るのはどの行の言葉を使っているのか?だったりする。

「き?」「し?」なんてのは多い。
私の家族の中では末弟が一番読みやすい。
これは子音を明らかにする必要があるのだとよくわかっているのだろう。
両親や次弟ではなかなかそこまでスムーズには読みづらい。

もちろん末弟に対しても100%はないので私の家族ではどうしても読めない時は「指文字」を使う。
私が「???」となっている時に指文字で「し」だの「き」だの表現するわけだ。
あいうえおの母音は既に読めているのでアタマの一語目が「き」だの「し」だのやってくれると
一気にクロスワードの虫食いがうまる。

ただ、新しい言葉など私の辞書に無い言葉の場合は全部書いてもらうほうが良い。
流石に何を言いたいのか想像もつかないからだ。

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Kレポート 健聴者の視点から(その1)

私と古くの関わりのある方より、興味深きレポートを頂いた。
彼女は聴こえる人である。

興味深く感じた部分を抜粋してみる。

=====
聴こえない二人(AとB)だが訊かない二人ではないので、聴こえる私(C)と同伴可能なのだと思う。
おそらく、AとCは8割理解、BとCは3割理解の会話可能な関係。
Cの言い分をAが理解できないでいると、BがAに説明する場面が何度かあった。
8割理解できるAとCだが、不明瞭にAが陥ると、BがAに説明できるのが不思議だった。
それは、3割しか理解できないながらも、繰り返される訊き返し言い直しを眺めていたBが、Aより先に理解したからだ。

早朝ビッフェでのこと。
食事中に急にCが椅子から立ち上がり屈んだ。
そして、床から立ち上がった手にナイフ。AとBの驚いた顔があった。
Cは平然と食事を再開。Cの特性は大袈裟に動かないし、黙って動く。
AとBとCは、落ちた場面を視ていない。AとBは顔を見合わせ、Cに「音がないから、どうした?の驚きと、ナイフを持って立ったことに驚いたんだ。」と説明。

これが聴こえる世界と聴こえない世界。背中合わせでもなければ、別な世界のことでもない。
食事中に会話が弾むと、食事が捗らない。
このとき、Cは時間を気にしたが、敢えて時計を視ないように振る舞った。
それがマナーだとCは思うからだ。
しかし、このときBは、Aに時間を気にしてのサインをした。(心理学なのか?行動学なのか?)
食事が会話によって捗らないのは、聴こえなる聴こえないに関係ない。
しかし、一瞬でもCは聴こえないからだと思った。
勿論、これは恥じている。これを帰宅して子に話した。

脳は一つのことしか処理しないから、食事中に会話すると味わえないと子は言う。
味わえていたら会話が漫ろになると言うのだ。
そして、無言給食や無言清掃を否定する話題になり、有言と無言の両方をやって、時と場で使い分けを知ること。
個々が判断できるように、促せる仕組みを持つようにと言うのだ。(脳科学だと思った。)

さて、食事中の話題に戻るとする。
Cは咀嚼音に過敏。茶を啜る音さえ出してはならぬ(勿論 咀嚼音も)と許されない育ちをしていることから、
お陰様で蕎麦すら啜れない不自由がある。
他人様の小さな小さな咀嚼音でさえ、Cの咀嚼音かをCは聞き分けようとしてしまう。
Cの咀嚼音なら即座に直すためだ。
そして、このときクチャラーのような音ではない、小さな小さな音の出所を視てしまった。
それをAとBに視られていたのであろう。小さな小さな音が消えた。
このことから過去に、AとBは咀嚼音を注意されてきたことがわかった。

このとき、AとBはサイン交換をしていない。
ノンバーバルコミュニケーションには、必ずしもサインがあるとは限らないということ。
CがAと会ったのは18年振りの3回目、Bとは初だ。
Cを挟んでのシンクロを三人で練習したこともないのに、シンクロが何故出来るのか?(頑張れ 量子科学と思う。)
=====

実に不思議なことである。
実際には不思議でも何でも無いのだが、
普段からしていることを改めて第三者の目から見ること、
なおかつ、私とは違い聴こえる方の視点から見ると不思議に感じる。

このレポートはほんの一部分であり、その中を抜粋したもの。
この部分を読んでみてどう思うだろうか?

単なる朝食のごく普通にあり得る風景である。

AとBは聴覚障害者であるため手話を使ってコミュニケーションをとる。
Cは健聴者であり手話を使えず、手話に寄るコミュニケーションはなし得ない。

そして、聴こえないがために音に関して何処かで警戒をし、
聴こえるがために音に関して注意をする。

また、直接何かを指摘した(発言した)訳ではないのに何処かでシンクロしていると感じる。
一番長い関わりであるAとCですら18年ぶりというのにだ。

この短いレポートの一部を読んで、何を感じるかは読者に委ねようと思う。

 

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再変換

ちょっとプライベートで起きた出来事であまり気分良くありません。
でも、起きてしまったものはしょうがないと前に進むしか無いですね。

今回は日本語と手話の再変換というものについて書きます。
これは手話歌にのみならず、音声である日本語と視覚表現である手話はそれぞれ別の言語であるということでして、
手話学習者の方にも参考になるかと思います。

私は歌の歌詞を読み、イメージに落とし込んでそのイメージを手話として構築しているのですね。

ところがその作った手話歌を指導する時は日本語に再変換して説明をしなければならない。

世の中、ナチュラルアプローチなんて学び方もあるんですが、
これ想像力が表現者(指導者)Aと同等か以上でなければ実は成立しないんですね。
物事の事象を指し「手話で表現」、表現者(生徒)Bは事象と手話表現を見て“紐つける”
これには「これをこうやってこうしてこれみたいに」という別言語での説明はありません。

余計なものが間に入らないということで割とそのままトレースしていただいて覚えてもらう感じ。

しかし、元になる言語で紡がれた文章を別言語に変換するにはどうしても元言語が邪魔をしてしまいます。

英語歌詞の歌を意味はよくわからないけど覚えて歌う…のと、訳して日本語で考えながら英語歌詞の歌を歌う。
その違いみたいなところがあります。

英語を翻訳すること無くそのまま覚えて使うのはある意味ナチュラルアプローチです。
ですが、一度でも別言語に置き換えてしまうと本来の英語が持つニュアンスが欠けてしまうことがあります。

手話も同じで、日本語のように回りくどい表現をしません。
だからといって、手話に日本語のような詩的な表現などが無い訳ではありません。
手話には手話ならではの日本語にはない詩的な表現などがあります。

手話学習者が陥りやすいのは何か?
手話を使うのに「日本語」の感覚で使うことです。

最初に英語を例に出しました。
同じ内容、同じ意味的なことでも日本語と英語のそれとは全然違うでしょう。

手話も同じです。
日常会話の場合、慣れてくると手話を日本語のルールに振り回されず、
手話のルールに従って表現できるようになるんですが…
絵本の朗読や歌などを手話でやると思いっきり日本語に振り回されます。

事象があって日本語で「装飾的、詩的表現」で表現する。
ここには日本語で書かれている文章通りではなく「本質」があり、
それを飾っているのです。

敬語や尊攘語などはそのわかり易い例で
「来る」はそのままなんですが「来られる」、「御出でになる」などと敬語、尊攘語として「来る」と言わずに
別の言い方が日本語ではあるんですね。

要は「来る」んですけどね。
ここに何らかの装飾や詩的表現が入るのでそのニュアンスが感じられるという。

手話だと日本語と同じような装飾や詩的表現はしないんです。
手話には手話ならではの装飾や詩的表現をするので、これをそのまま日本語訳すると日本語らしくないということもあります。

手話歌は元になる歌が日本語音声で流れますから、これが邪魔をします。
皆さんが何かを語ろうとしたときも同じで、日本語で考えた後、手話で話そうとすると
何か矛盾した表現になってしまうこともあると思います。

まさしく、日本語に振り回されている。

そこで大事になるのは再変換です。
日本語というのは柔軟にできていまして、多少順番を入れ替えても
伝えたい内容は届くというところがあります。

例えば、主語の位置が頭ではなくお尻につけても同じ意味になります。
述語もそうです。

言い方でニュアンスが変わる事はあっても“内容”そのものは変わりません。
この“内容”を“本質”と捉えてみると、それさえブレなければどんな言い方もできます。

ちょっと乱暴な説明ですが、一度このあたり考えてみては如何でしょうか。
どこかでつまっている場合、考え方一つでスッと理解し、表現できるようになるかも知れません。

 

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